会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いである。主に現在の福島県、新潟県、栃木県が戦場となった。なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として区別される場合が多い。
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文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、尊攘派志士の取り締まりや禁門の変において幕府方の中核となって奮闘した。この経緯もあり、薩摩・長州を中心とした新政府に幕府方の首謀者として会津藩は、鳥羽・伏見の戦い後の慶応4年(1868年)、新政府から追討令を受ける。追討を命じられた仙台藩、米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成し結束を強めた。奥羽14藩では会議開き会津藩、庄内藩の赦免嘆願を目的とし、新政府の九条総督に赦免嘆願書を提出するも認められず、朝廷へ直接建白を行う、(太政官建白書)も作成されたが認められることはなかった。奥羽越藩同盟では(白石盟約)の時点では赦免嘆願であったが、会津藩が新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、仙台藩士による新政府の鎮撫使である世良修蔵を殺害した事件から戦争に傾くことになる。
白河口の戦い
戊辰戦争の白河口の戦いで焼失した白河小峰城詳細は白河口の戦いを参照
白河藩は当時国替えにより藩主不在となり幕府直轄領であった。旧幕府軍は会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日(1868年6月10日)に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日(6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日(6月20日)に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。
二本松の戦い
6月24日(8月12日)に棚倉城が落城、7月16日(9月2日)に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、新政府軍はじりじりと北上した。7月29日(9月15日)、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃。二本松城は落城し二本松藩主丹羽長国は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、二本松少年隊と呼ばれた。特に木村銃太郎率いる20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれた。
若松城下への侵攻
二本松領を占領した新政府軍はでは、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津藩の攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった。
二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。8月21日(10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して8月23日(10月8日)朝に会津若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部は飯盛山で自刃した(最年少隊士の飯沼貞吉のみは蘇生し、昭和6年(1931年)まで生き抜いた)。
日光口の戦い
会津地方南方の日光街道沿いでは、大鳥圭介率いる幕府歩兵隊と会津藩家老の山川大蔵とが防衛に当たっていた。閏4月21日(6月11日)と5月6日(6月25日)の今市攻略戦では攻略に失敗したが、その後は一進一退の戦いを続けていた。だが二本松が陥落すると母成峠の防御に伝習隊を抽出し、新政府軍が若松城下に突入するに至って、山川大蔵は戦線を放棄して若松城へ駆けつけた。山川大蔵は、会津地方の伝統芸能である彼岸獅子のいでたちをすることで新政府軍の目を欺き、包囲下の若松城への入城に成功したと伝えられる。
降伏
損傷した若松城(降伏後に撮影)会津藩は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛らは開城後も城外での遊撃戦を続けたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。
戦後処理
薩摩藩の軍監・桐野利秋の計らいで容保は死一等を減じられ、江戸に蟄居。本来であれば家老上席にあった西郷頼母、田中土佐、神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していたため、次席の萱野権兵衛が戦争の責任を一身に負って切腹した。
(新政府軍)は会津戦争の戦死者を「賊徒」として埋葬を許さず、このために長期間に渡って放置された死体は風雨に晒され、鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況だったと言われている。横たわる死体にはカラスが群がり、首のないもの、袴、褌が脱がされたもの、中には裸にされ性器を切り取られ口の中に押し込まれているものなども見うけられた。戊辰戦争の中でもこの会津に至っては遺体への残忍な恥辱、見せしめが多く観られた。見かねた庄屋の吉田伊惣冶が戦死者を埋葬したため、西軍民政局に投獄され数日が経ち「今回だけは許す、今後このようなことがあれば直ちに首を刎ねる、村人に知らしめよ。」と釈放された。(飯盛山に彼を顕彰する碑が立てられている。)半年程経ち遺体取り片付けの誓願書が多く寄せられ、実際には疫病の要因になるという理由からようやく埋葬を許された。死体の処理には藩士や村人を許さず、被差別部落民(記録では763人)を使い墓ではなく、罪人塚という形で認められた。彼らは大きな穴を掘り、遺体をお風呂桶、古棚、莚にぎゅうぎゅうに詰め、ごみ同然に投げいれたという。戦後処理のため残された会津藩士二十人は皆、涙ながらに立ちすくんでいたと言う。この中にはごみ同然に捨てられている遺体を、丁重にしょうと身分を捨て部落民になる伴百悦(後に軍務筆頭監察局の久保村文四郎を殺害する)もいる。またこの頃、同時期に偽札、偽金が横行し久保村文四郎によって取調べすら行わず54人の町民が母子の前で公開処刑されている。この苛烈極まりない処理は長州藩の(民生局も含め)管理下で行われており、逆に薩摩藩の管理下だった(会津藩と同じく列藩の中心の)庄内藩は寛大な処置で、これに感激した庄内藩士は後に西南戦争で西郷隆盛と運命をともにしている。
山縣有朋を筆頭にした長州閥は、明治期を通じて会津地方民や会津地方出身者を「朝敵風情が」と侮蔑し、学界や官界に進んだ会津藩出身者の登用について徹底的な妨害工作を行ったと言われている(昭和天皇の弟である雍仁親王と松平容保の孫、節子の婚儀に際しての話は有名である。)こういった処置は会津民衆の新政府軍側諸藩(薩摩・長州)に対する遺恨となったと言われる。西南戦争では多くの会津人が薩摩の巨魁である西郷隆盛への恨みを晴らす為に政府軍に志願したといわれる。また会津藩出身の軍人・柴五郎などは、西郷や大久保利通など薩摩藩出身政治家の非業の死に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている。
しかし遺体放置の話の根拠とされる「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」に記されている官命では、会津軍、新政府軍双方の戦死者に対する一切の処置を禁止する内容となっており(戦死者からの金品剥ぎ取りが横行したための一時的措置と考えられる)、会津側の戦死者のみを埋葬禁止とした内容ではない。また戦後の会津統治を委ねられ遺体埋葬にも当たった会津民政局には薩長の人間は全く入っておらず(幹部は主に東北諸藩の人物、職員は従来の村役人によって構成されていた)又、会津庶民の長年に渡る藩政への遺恨、会津軍による周辺の街の焼き払い、領内における身分差別等、様々な背景があったとされる。(会津世直し一揆参照)。従ってこういった遺体放置の話が薩長によるものであったのかどうか、明確な根拠がなく一方的な視点で書かれた小説等が多く疑問が多い。
後世への影響
近年でも以下のようなエピソードがあり、現在でも会津戦争の因縁の例として上げられる事が多い。
半ば冗談ながら“現在でも会津若松市民にとって戦争と言えば第二次世界大戦(太平洋戦争)ではなく戊辰戦争”とまでいわれている。[要出典]
福島県人は、山口県・鹿児島県出身者とは付き合いたがらない・関わりたがらないと言われ、特に山口県出身者に対する遺恨は深く、会津若松では、山口県人という理由で宿泊を拒否したり、タクシーの乗車を拒否したりすることがあると言われている。[要出典]
戊辰戦後軍部や関連の機関の採用試験や昇進等には山口県と書けばほぼ合格であった。反対に日清、日露から第一次世界大戦まで徴兵された会津、会津地方出身者は生きて帰れないような激戦地に送られたという(これによって会津地方では失われた剣術の流派、伝統芸能もある)。太平洋戦争にも似たような話があり、軍部の採用、昇進また戦地の派遣先まで長州閥に左右された。[要出典] ただし、実際には第二次世界大戦前夜の陸軍内における長州閥は勢力争いに敗れており、「長州出身と書けば採用や出世に不利になる」のが現実であり、少なくとも第二次世界大戦当時にこのようなことはありえない。
ちなみに、福島県に龍馬会(坂本龍馬に因む会)が結成されたのは、47都道府県の中で最後である。
昭和61年(1986年)には長州藩の城下町である萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので・・・」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。 「こうした行為は教育上よろしいとは思えない」という類の批判もかなりよせられた。実際この騒動の後に萩市と会津若松市は友好都市関係を結ぶことは無かったが、建前上ではあるが活発に交流するようになり、この騒動はそのきっかけとなった。[要出典]
評価
新政府軍は北越戦争に大兵力を投入し、白河方面の兵力展開は小規模であった。しかし新政府軍の指揮官伊地知正治は寡兵を率いての白河城奪取とその後の防衛戦、また母成峠突破と若松城下への電撃侵攻と果敢な戦いぶりで終始旧幕府軍を圧倒した。これに対して旧幕府軍は日光口での山川大蔵の奮戦を除くと全く良いところがなかった。装備・軍制の面でも旧幕府軍は新政府軍に及ばなかった。例えば白虎隊は鳥羽・伏見の戦いの後の軍制改革によって誕生したものであるが、身分別の編成を残すなど、近代化は不徹底であった。